金田淳子( kaneda_bl )のブログ

金田淳子が日々思ったことや、ハマっている作品、ハマっていない作品について書くブログです。

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「ゲーム実況」について2009年に金田淳子が書いた文章

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ゲーム実況、そして刺身。ーーゲーム実況プレイ動画についての覚書き

初出:『ユリイカ』2009年4月号(特集*RPGの現在)、青土社、pp184-190。

 

おれは しょうきに もどった

 思い返せばこの一年というもの、毎日最低一時間は、ニコニコ動画でゲーム実況を見ている。起床してゲーム実況、帰宅してゲーム実況、夕食後にゲーム実況、就寝前にゲーム実況。PCはあたかもゲーム実況専用受像機と化した。その視聴活動はわれながら感心するほど勤勉で、うかつに他人に話すと心配されるレベルだ。
 ゲーム実況とは何か。ニコニコ用語で言えば「ゲーム実況プレイ」または「実況プレイ」と言ったほうが通りがよいだろうが、これは「プレイヤー等が喋りながらゲームをプレイした様子を収めた動画で、ゲーム映像と会話が重なって配信されているものを指す」(ニコニコ大百科より)。テレビ番組『ゲームセンターCX』の「有野の挑戦」を思い浮かべていただければわかりやすいかもしれない。
 ニコニコ動画の全動画数をカテゴリ別に数えてみたという調査がある。ブログ「longlowの日記」がそれで、これによると09年1月8日時点でのトップは「ゲーム」カテゴリであり、その数は約74.9万本、全動画の43.7パーセントを占める。07年3月8日には、約11.3万本で全動画の34.3パーセントであったことと比較すると、この間の増加数、増加率は凄まじい(注1)。この結果はニュースサイト「IT MEDIA+D Games」(09年1月28日)でも引用され、ゲームカテゴリの躍進を支えているのはゲーム実況ではないかと推測されている(注2)。
 ゲーム実況動画の歴史と現況については、ブログ「最終防衛ライン2」に詳しい(注3)。ここで特に08年は「ゲーム実況動画バブル」の年と位置づけられている。08年は新しい実況者が次々と登場しただけでなく、実況者「hacchi」の動画が30時間で15万再生を突破した(注4)ことから推測できるように、動画の視聴者も大幅に増加したと考えられる。08年末には、「えどさん”&ふみいち」という、おそらく世界初の「プロのゲーム実況者」まで誕生している(注5)。
 そうはいっても、ゲーム実況という動画ジャンルを初めて知ったとき、たいていの人は「興味が湧かねぇ……」という困惑を隠しきれないのではなかろうか。
   私もほんの一年前までは、ちょっとゲームが好きな、ごく軽傷のニコ厨だった。
 あの頃の私が好んだ動画は、実況なしの「ゲームプレイ動画」だ。特に『ファイアーエムブレム』の、攻略不可能とも思われる制限を課したマゾプレイを選んで視聴した。「制限プレイ」の醍醐味とは、常人には到底まねのできぬテクニック、忍耐と叡智、加えて乱数という神の手によってまれに生み出されるドラマにあり、例えてみれば、プロスポーツの好試合、好プレイを目の当たりにする面白さに近いかもしれない。そのゲームを自分もプレイするこしたことがあれば、制限の難易度が分かるから、よりいっそう堪能できる。ニコニコ動画最大の魅力であるコメント機能を使って、「うp主」(動画の配信主)のファインプレイに賞賛を送り、弾幕を作るのも楽しいものだ。だがゲーム実況に関してだけは「そう かんけいないね」と、華麗なスルーを繰り返していた。
 そんな私にも、ゲーム実況を見てしまう日が来た。やはり『ファイアーエムブレム 聖戦の系譜』を探していて、ピンと来るプレイ動画がなかったので(というか既存のものを見尽くしてしまっていたので)、ちょうど目についた実況動画を、なんとなく見てしまったのだ。
 おりしも、ゲーム実況がバブル的増加を始めた2008年夏。そこから先は坂を転げ落ちるがごとしだ。


そして ゲームじっきょうが はじまった

 先述のように、ゲーム実況は現在、ニコニコ動画を主な発表の場として、実況者と視聴者をますます増やしつつあり、アマチュア動画配信における一大ジャンルに成長している。
 なぜゲーム実況はこれほどまでに増加したのか。
 動画配信をする実況者の立場から考えると、ゲームは権利者による動画削除が比較的起こりにくく、その分、配信しやすいことが指摘されている(注1に同じ)。またゲーム実況というものが「しゃべりながらゲームする」という、誰にでもできそうな内容であることから、歌唱力、画力、編集力などが必要とされる他のジャンルはもちろん、実況なしのプレイ動画(制限プレイが多い)と比べても、配信しやすく思える(だろう)ことは見逃せない。
 しかし配信しやすいというだけならば、再生数の低いいわゆる「泡沫」動画が無数に表れるだけであり、現在のような活況、すなわち再生数が五桁の動画がもはや珍しくなく、再生数六桁を獲得できる有名実況者が何人も現れるという状況にはならないだろう。実況者にとってだけでなく、視聴者にとって、ゲーム実況は明らかに「面白い」と思われており、少なくない時間を割いて(そのゲームを自分でプレイする時間までも割いて!)視聴するに足る動画として選ばれているのだ。
 ではゲーム実況の面白さとは何か。
 この問いについて考えるとき私は、一ゲーマーとして、一実況ファンとして、ゲームというメディアの本質的な可能性に触れるような気がしてならない。同時に、一個の完成されたパッケージとしての「作品」概念や、それに対する「批評」という行為についても考えざるを得ない。
 なぜか。それはひとつには、視聴者として「ゲーム実況を楽しむ」という行為が、「ゲームを楽しむ」という行為そのもの、あるいは、少なくともゲームを楽しむ行為の一部のように思えるからである。これは、私の個人的なゲーム経験にもとづく立論なのだが、ゲームというメディア、とりわけモニターとして据え置き型テレビを必要とする家庭用ゲーム機におけるゲームは、コントローラーを握る者(プレイヤー)だけがゲームを経験しているのではなく、それを後ろで見ている家族や友人がいる場合、そのような者も、部分的にゲームを経験していると言えるのではないだろうか。もちろん、プレイヤーに委ねられた選択肢や、キー操作によるアクション要素が多いほど、コントローラーを握っている者とそうでない者のプレイ経験は質的に異なるものになるだろう。しかしそのような差をも含み込むようなかたちで経験されるのが、ゲームというメディアなのではないだろうか。
 たとえば実況者「塩と胡椒」などの、二人以上で行われるゲーム実況プレイを見るといい(注6)。

金田2019注:元記事は雑誌掲載であるため動画を添付できませんでしたが、参考までに「塩と胡椒」初期のゲーム実況を貼ります。]


「塩」は初プレイでコントローラー役、「胡椒」はゲームクリア済みであるため、助言を授ける係である。この場合、コントローラーを握っているかどうかという差だけでなく、プレイ経験の差があるため、二人の経験が大幅に異なってくることは疑いない。実際に、ホラーゲームの衝撃的な場面で絶叫する塩と、それを笑ったり、あるいは何かを食べたりして上の空な胡椒、という激しい温度差が彼らの実況の特徴であり、みどころのひとつである。しかし、そのような経験の差をも含めて、塩と胡椒の二人ともが、他とは違う彼らのゲーム経験に参加していたことは間違いないのである。
 ゲームというメディアのもたらす、このような雑多でふぞろいな経験を可視化する表現として、私は黒田硫黄『茄子』(新装版一巻)の、「セーブ、そして刺身。」というシーンほどに雄弁なものを知らない。

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黒田硫黄、2002、『茄子』2巻、講談社、p143。[金田2019注:元記事には引用していない。また元記事で「新装版1巻」としているがここでは通常版を用いた。]


 ふたりがゲームをする。一人はクリア済みであり、途中であきらめてしまったもう一人の代わりにコントローラーを握る。ゲームをしていて腹がすいたので、卓上に刺身などを並べ、ゲームをしながら片手間に食べる。そのときのせりふが「セーブ、そして刺身。」だ[金田2019注:厳密には「セーブそして刺身」。当時、記憶違いで句点を入れてしまったようだ]。ゲーム操作(おそらく十字キーと〇ボタン連打)と、刺身が同列に並べられ、さらにその隣には、コントローラーを持たない人間がいる。ここで通常、ゲーム批評や鑑賞行為として切り出されるのは、コントローラーを握った人間の「セーブ」だけなのだが、ゲームの経験としては、セーブだけでなく、刺身も友人も、それら全てが含みこまれて、雑多な一回性の内に営まれる。
 話をゲーム実況に戻そう。さて仮に、「塩と胡椒」の塩がプレイしている間、隣にいる胡椒が一回もしゃべらなかったら、胡椒は一緒にゲームを経験していない、のだろうか? いやともかくもゲームを見ていたのなら、胡椒もゲームを経験したと言ってもいいだろう。では、胡椒がその場におらず、スカイプで塩のプレイ画面を見ているだけだったら?………。
 ……このように極限まで切り詰めて考えていくと、ゲーム実況における視聴者という位置は、ゲーム経験という意味では、実況者(プレイヤー)を隣で見ている者の位置と、それほど変わりはしないように思われる。その程度の意味で、「ゲーム実況を見る」という経験は、「(実況者と一緒に)ゲームをする」という経験に近似している。どうしてもコントローラーを握りたい人は別だが、私のように家族や友人のゲームプレイを見るのも好きだったという人間には、自分の都合のいい時間に片手間に見られるゲーム実況は、動画配信という最新テクノロジーが可能にしてくれた、本質としてはかなり典型的かつ伝統的な「ゲーム経験」なのである。


ねんがんの ゲームじっきょうを てにいれたぞ!

 ゲーム実況の視聴とは、ゲームをプレイする経験に近い。だからゲーマーは自分でゲームをプレイする代わりとして、ゲーム実況を視聴する。しかし賢明なるゲーマー諸氏はすぐお気づきであろうが、ゲーム実況の流行している理由の中心は、実はそこにはない。ゲーム実況が、自分でゲームをクリアする代わりというだけならば、クリア済みのゲームの実況については大概スルーするはずである。ところがコメントを散見する限り、自分がクリア済みのゲームであっても視聴する、あるいは自分がクリア済みであるからこそ好んで視聴する者が多いのである。
 なぜか。これに答えるためには、ゲームに対して少し角度を変えて迫らねばならない。
 先にゲームというメディアが、コントローラーを持つ者も持たない者も含みこむような、雑多でふぞろいな経験をもたらすことについて触れた。しかしそれを言うならば、テレビ視聴や音楽鑑賞なども、そのような経験として営まれているに違いない。ならばなぜ、「テレビ実況」ではなくて、「ゲーム実況」なのか? そこには、権利者削除などの外在的な理由がなくもないのだが、ゲームというメディアに内在的な理由もある。
 先述のように、私はコントローラーを握っていない視聴者すらもゲームを経験しているという考えであるから、テレビ番組とゲームをそれほど画然と分けているわけではない。しかしそれでもゲームの本来的な特性として強調せざるを得ないのは、プレイヤーに与えられたある程度の自由である。これは何も、マルチシナリオやマルチエンディングのゲームを指して自由と言いたいのではない。そうではなく、もっと日常的で見通しがちな自由、つまりどのような速度でどこにキャラクターを動かすのか、どんな戦闘をするのか、どの文章を読みムービーを見るのか、あるいはスキップするのか、どこでセーブをし、刺身を食べたりトイレに行ったりするのか。こように、一つ一つアナログスティックだか〇ボタンだかを押して行われるこまごまとした行為、それは実在の肉体によって行われるからこそ、食事や排泄や睡眠などの日常的な活動の中に溶け込んで経験される、これらの行為のことを、私はゲームの自由として捉えたいのである。今ここで事新しげに指摘しなくても、専門的にはゲームのこうした側面のことは、インタラクティブ性として早くから注目されてきたのであろう。テレビ番組や映画や音楽も、停止や早送り機能を駆使することである程度の自由を享受できるが、コントローラーを握ってキー操作を行わなければ基本的に何も起こらないゲームと比べれば、インタラクティブの質が明らかに違う。
 ゲームのこのような自由は、単にプレイヤーにとって行動選択が自由であるだけでなく、そこで生成される物語の自由を生み出す。ここで言いたいのはやはりマルチシナリオやマルチエンディングなど、ゲームの作り手側が予め用意しておいたシナリオのことではない。物語生成といっても、ゲームのプログラムに明文化されたシナリオの流れだけが物語なのではない。文学理論の世界では、テクストはそれだけでは意味をなさず、読み手が解読してはじめて意味が生まれるとする考えはもはや常識の域であろうが、ゲームにおいてもまた同じことが言える。そしてゲームがとりわけインタラクティブなメディアであるからこそ、文字列の解読だけが物語なのではなく、プレイヤー側の膨大な回り道や試行錯誤、失敗、リロード、親指の腹が痛むほどの〇ボタン連打、さらにリロード、その合間に刺身……こういった全体を、ゲームの物語生成であるととらえることができる。
 このように考えると、同じソフトであっても、ひとつひとつのゲームプレイがそれぞれ一回性のもの、別の物語として立ち上がってくる。ゲームのこのような特性は、ゲーマーにとっては経験的に感知されていたであろうが、ゲーム実況が現在のような流行に至るための物質的な基盤をなしていると言ってよい。
 ゲーム実況の面白さとは何か。とりわけ、自分がクリア済みの実況を見ることの何が面白いのか。それは端的に言えば、「同じゲームだけど、別の物語だから」である。 
 ゲーム実況のこのような物語生成の力を、ゲーム作家の米光一成金田2019注:「編集者のアライユキコ」の間違いでした。2019年の書き起こしにあたり、改めて謝罪し訂正します]は、実況者「しんすけ」を例に挙げつつ、「クリエイターとプレイヤーが火花を散らし、それが批評として機能すること」として語っている(注7)。
 そのとおり。ゲーム実況という物語生成を、ゲーム批評の一形態として考えることも可能だろう。そしてゲーム批評としてとらえたとき、このようにいったん書き文字に置き換えるというまどろっこしい形式よりも、実況という形式がいかに雄弁であるかを痛感せざるを得ない。
 先の米光[金田2019注:「アライ」の間違いです。]が挙げた「しんすけ」の批評性は、彼の動画として名高い「小悪党がドラクエ4を真面目に実況」についての指摘である。少し長くなるがその一部を引用する。

金田2019注:この動画については、しんすけ自身が全て削除してしまったため、現在、別人がサルベージして再投稿した動画しか見ることができない。どうしても見たい方はタイトルで検索してほしい。]

 王様から、村の子どもたちの失踪事件の解決をまかされた戦士ライアンは、冒険の途中、ホイミスライムホイミンを仲間にする。ホイミンは人間になるのが夢で、話しかけると「ライアンさん ライアンさん! えへへ 呼んでみただけ」など、かわいらしいセリフを連発。ホイミスライムは、敵としてふつうに登場するモンスターだが、それ以降、しんすけは、いかなる戦闘でもホイミスライムを倒さない選択をする。どんなに辛い戦闘になっても「ここで倒してしまうと、ホイミスライム界でのホイミンの評判がさがる」と、絶対に闘わず「にげる」コマンドを選択し続ける(わたしはそんなことまで考えず、ばんばん倒した)。しかし、1章のラスボスのいる塔で、ホイミンは言うのだ。「ライアンさん ぼくと同じホイミスライムが出てきても なさけをかけちゃダメだよ」
(引用者中略)
ホイミンは、真の戦士だったんだな」としんすけは言い、このあとにホイミスライムが出て来ると「ホイミン、お前が望むなら」と容赦なく倒していく(注8)。

 しんすけの独創的なプレイスタイルによって、シナリオライター堀井雄二の仕掛けた小さなせりふーーそれ自体はごく他愛ないもので、しかも強制イベントですらなく、大多数のプレイヤーによって忘れ去られるであろうせりふーーが、「しんすけのドラクエ4」という新しい物語のカギとして生成される。これぞゲーム実況の醍醐味だ。批評の役割のひとつが、そのテクストについての新たな読解の発見であるとするならば、このしんすけの実況について批評家は、「歪みねぇな」と賞賛せざるを得ないだろう。


せっかくだから、俺はこのRPG実況を選ぶぜ

 さて、ここまで延々とゲーム実況について、ゲーム経験としての本来性、物語性勢力、批評性などと熱弁をふるってきたが、最後に初心に立ち返って、RPG実況をいくつか紹介させてほしい。
 まずは、「はるしげ」の「ドラクエ5 SFC版 ドラクエ4ビルダーズ 実況付き」シリーズ。

金田2019注:これも元記事には貼っていないが、今回、せっかくだから引用する。]

 『バイオハザード』のビビリ泥酔プレイで有名なはるしげだが、RPG実況にも定評があり、このシリーズでは、「ドラクエ5で、ドラクエ4に出てきたモンスターだけを仲間にし、モンスターだけを戦わせてクリアする」という制限プレイを敢行している。『ドラクエV』と言えば、ご存知、天空三部作の金字塔。父から息子(主人公)へ、さらに孫へという家族の物語がみどころであり、この家族をメインのキャラクターとして使用しないプレイヤーは、まずいないだろう。ところがこの制限プレイにおいては、そんな家族の物語などまるで無視して、微妙なモンスターたちが主役の物語、『はるしげドラクエ5』が生成する。モンスターたちを仲間にしても、はじめのうちは命令どおりに動いてくれないという心憎いシステムとあいまって、ニフラムを唱え続けるスライムや、勝手にメガンテを唱えて自爆するばくだんいわの愛らしさは尋常でなく、圧倒的な戦力不足のなかでの中ボス・ラスボス決戦に至っては、涙なしには語れない。
 そして再度の登場となるが、「しんすけ」をはじめとする「ゆとり組」のデビュー作、「ゆとりの友人に無理やりFF4実況させてみた」シリーズ。

金田2019注:この動画についても、しんすけ自身が全て削除してしまったため、現在、別人がサルベージして再投稿した動画しか見ることができない。どうしても見たい方はタイトルで検索してほしい。]

このシリーズについては、初プレイとうたっていたが実は既プレイであり、一連のリアクションやアドリブが演技であったと推測されることが現在でも物議をかもしているが、かれらの物語生成力は、初プレイか既プレイかにかかわらず、問題なく評価されるべきものである。この「ゆとりFF4」で特筆すべきなのは、キャラクターの名前を自由につけ直せるリネーム機能を用いた「カインいじり」である。『FFIV』では物語の終盤に至るまでパーティメンバーが入れ替わり続けることもあってか、シナリオ上でリネームの機会が数度与えられる。大多数のプレイヤーは新規参入のキャラクターを任意の名前に変えるだけだろうが、しんすけは、裏切ったくせに戻ってきたカインだけ懲罰的に名前を変えることにした。カインは中盤で「ひら」になり、その後ことあるごとに査定が行われ、リネームの機会が訪れると「かちょう」、「さらあらい」などと名前を変えてゆく。
 そもそも『FF』は『ドラクエ』に比べても、キャラクターがシナリオ進行に従って強制的に入れ替わるなど、プレイヤーの自由度が低いRPGと言われてきた。本稿の論旨で言い直せば、『FF』は(ゲームとして劣っているということではないが)プレイヤーによる物語生成の可能性がそもそも低めに設定されているのだ。だが、しんすけはその『FF』に対してすら挑戦し、しかもゲームに外在的な雑談で勝負するのではなく、あくまでゲームに内在的に「ゆとりFF4」という新しい物語(主にカインの物語)を作り上げてみせる。

 新しい物語へ。そんな憧れを抱いて、今日もまたニコニコ動画では、新たなゲーム実況者が、そして新たな視聴者が生まれている。われわれが初めてゲームに触れたときに感じたであろうそんな憧れを、ゲーム実況は、確かにリロードしてくれる。

 

 註
金田2019注:ウェブページに関して、2009年の時点で参照したURLが残っていない場合があります。移動したと分かる場合、移動先のページのURLに書き換えています。URLがなく、移動先も発見できなかった場合、そのように記します。]
(1)longlowの日記 http://longlow.hatenablog.com/entry/20090108/p1 (移動済)
(2)IT MEDIA+D Games https://nlab.itmedia.co.jp/games/articles/0901/28/news110.html (移動済)
(3)最終防衛ライン2 http://lastline.hatenablog.com/entry/20090313/1236873184 (移動済)
(4)ニコニコ大百科 https://dic.nicovideo.jp/a/hacchi(移動なし)
(5)ニコニコ大百科 (えどさん”&ふみいち の項)https://dic.nicovideo.jp/a/%E3%81%88%E3%81%A9%E3%81%95%E3%82%93%E2%80%9D%26%E3%81%B5%E3%81%BF%E3%81%84%E3%81%A1(移動済)
(6)「塩と胡椒」によるゲーム実況のうち、「個人的に詰みゲー クロックタワーゴーストヘッド絶叫プレイ」など、胡椒がクリア済みと明言しているシリーズをここでは指す。
(7)besidegames (URL存在せず、移動先不明)
(8)同上 (URL存在せず、移動先不明)

(以上)

 

↓ 2009年に書いたこの文章について、2019年の私が書いた補足です。ぜひ読んでください。

www.kanejun.net


↓ 金田が1日30時間読んでいる「刃牙」シリーズについての感想記事(2019年8月現在、その23まで書いています)も読んでね!

note.mu